『屋上の百合霊さん』に見る「当事者性」の欠落 へっぽこ百合作品の他人事感覚について 

いつもお世話になっているみやきちさんから、うちの『屋上の百合霊さん』レビューにコメントをいただきました。
屋上の百合霊さん レビュー・感想・評価 凡百合ゲー、ときどき電波
「たった7組」か? 「7組もいる」のか? マジョリティ目線の妄想百合トピア(笑)『屋上の百合霊さん』
かなりタイミングが遅れてしまいましたが、こちらからもお返しトラックバックです。みやきちさんは記事で同性愛者の「当事者性」をかすめ取って被害者ぶる百合オタの姿勢に苦言を呈しています。そこで私もこの「当事者性」という言葉を使って、『屋上の百合霊さん』を筆頭にするへっぽこ百合作品を批判したいと思います。
「先輩、同性愛ってどう思いますか?」
「え、ええ!?」
「あああ、え、えっと、その、わ、わたし、わたしって!
その、自分がそういう人だっていう自覚とかなくて、別にそう思ってるわけじゃないんですけど!」
「その、やっぱり先輩のこと、好きなんです。先輩、女の人なのに好きなんです! ほんとに!」
「だ、だから、先輩がそういうの嫌だったらやだなってその、でも先輩好きなのはほんとで、あれ、あれ?」
こんなに牧ちゃんががんばれるのはやっぱり、わたしが好きだからだろうか。私の思い上がりかもしれない。でも、そうだからなんだろうか。
同じ女の子同士なのに、それが変かもしれないとわかっていながら、でも、わたしに告白してくれた。それは、すごい勇気のいることだったにちがいない。
初めて聖苗が好きって言ってくれた時は、わからなかったけれど……。
今なら、わかるの。聖苗が、好き。女の子同士だけど、好きなの。あなたの気持ちに……。
すごい、前向きだな。うまくいかないことって考えないのかな。だって、相手は同性なのに。
あたしは答える。うん、そう。友達としてじゃなくて、好きなんだ。いつも羽美が言ってくれる、友達としてじゃなくて。
「そ、そのさ……、それって、変じゃ、ない? わたしたち、女の子同士なのに、さ……」
「……うん、そうかも」
そんなこと、わかってる。
「でも、あたし、羽美のこと、好きなんだ。
あたし、変でもいいよ。でも、好きなんだ。ずっと、言いたかったんだ」
比奈の想いを変だと思うことはもうない。今まで、女同士でも、あんなにひたむきに、まっすぐに、想いを相手に向けている人を見てきた。
「……でも、好きなんだよ、私、月代ちゃんのこと」
「うん、知ってる。そういってくれたものね。大好きよ、桐」
私は、先生なのに。桐は、学生なのに。そして、二人は女同士なのに。
「でも……」
この関係は間違いなんかじゃない、勘違いでもない。
つないでいる手は、確かなもの。
「大好きな、桐。大好きって言ってくれた、桐」
「あなたがいてくれるから」
「お、女同士なんだよ? もう今さら、それが変だとか思わないけど……。
でも、まわりの人は、そう考えてくれないかも。お父さんやお母さん、比奈のおじさんやおばさんを困らせるかもしれない」
「比奈にだって……、私が恋人だってことで、迷惑かけるかも。比奈が、変な目で見られたら、どうしよう……」
「結奈、別に、同性愛とか百合とか、女の子同士とか、そういうのが嫌いってわけじゃないんだよね?」
「そう思っている。確かに、最初は変なことだと思った、恋愛って男女の間のものだと思っていたから。それが普通だと。
でも、確かに普通じゃないかもしれないけど。誰かを好きという気持ちの行き先には、たとえその先が同性であっても、変じゃないと」
以上、『屋上の百合霊さん』本編からの引用です(強調は引用者によります)。このブログでは既に何度となく引用しているので新鮮味がないかもしれませんが、この作品の陳腐さと程度の低さがこれでもかと表れているので何度でも引っ張ります。特に最後のやりとりとその一つ前のポエムには顕著ですね。前者はユリトピア(笑)なる同性愛者(作中の登場人物様は自分たちがいやらしい“レズの人”とは違う、もっと清い関係にあることを折に触れて主張なさりますが、便宜上こう呼びます)のコミュニティが成立し、何組もの同性カップルと友人になった主人公によるもの、後者は主人公たちの先生によるものだと書けば、こいつのクレイジーさが未プレイの方にも伝わるでしょうか。
“たとえ女同士でも”貴女のことが好き。“同性同士なのに”愛を貫いていて凄い。“普通じゃないかもしれないけれど”“人に迷惑を掛けるかもしれないけれど”真実の愛があれば関係ない。私はこういった百合厨好みのポエムを「ナノニーナノニーダケドー」と呼んでいますが、『屋上の百合霊さん』のような十把一絡げの百合作品では必ずと言っていいほど目にしますね。私はこの手の安っぽいマンセー表現が反吐が出るほど嫌いです。ほとほとうんざりしています。こういった表現の何が嫌かって、意味不明な選民意識が鼻がつくのは元より、人の根幹に関わるアイデンティティを平然と「普通じゃない」呼ばわりしているのが嫌ですね。それにしても、へっぽこ百合作品における「普通」という概念の軽々しい扱いは、いくらなんでも目に余るものがあります。どうしてあんなに鈍感なのか、逆に気になりますね。やはり普通であるところのマジョリティの立場に胡座をかいているからなのでしょうか。あるいはよっぽどの鉄面皮なのでしょうか。そうでなければ他人の重要な構成要素をいけしゃあしゃあと普通じゃない呼ばわりしたり、そのような作品を鑑賞して無邪気に萌え萌えしたりできるわけがありません。
『百合霊さん』のストーリーにおいて、最終的に何組もの幸せそうな同性同士のカップルが誕生します。しかし、彼女たちは「同性愛は普通ではないもの」というスタンスは頑なに譲りません。カップルが成立したあとですら、同性愛は異常なもの、一過性のもの、許されないもの、周囲から理解されないものであることを、パートナーなり周りの人間なりに吹聴しつづけます。私はこのように周りの友人知人、そして自分自身のアイデンティティを何のためらいもなく「許されない」と言い放つところが、血の通った人間の感覚とかけ離れていると思うんですよ。『百合霊さん』キャラクターの作り物っぽさ、薄っぺらさ、気色悪さをより一層引き立てています。中でも主人公の薄気味悪さは群を抜いていました。この人は狂言回しのような立場で、同性同士のカップルが成立していく過程を幽霊を通して見守り、また趣味である料理を通して彼女たちと交流を重ねていきました。にもかかわらず、グランドシナリオの最後の最後まで、同性愛者に対して「周囲の人間に迷惑を掛けるもの」「変な目で見られるもの」という差別主義者もびっくりの認識を持っていらっしゃいました。
以前の記事でも似たようなことを書きましたが、私は自分とセクシャリティを異にする人間を受け入れる最善の方法は、その人と友人になることだと思っています。正しい知識を身に付けることももちろん重要ですが、何よりそれが手っ取り早いと思います。そいつと一緒に勉強したり、部活や委員会活動で汗を流したり、仕事をしたり、同じ釜の飯を炊いたり食ったり、趣味について語ったり、物の考え方について話したりしてみてください。一緒に活動して、笑って泣いて、同じ時間と価値観を共有してみてください。それでもなお、自分と異なることや少数派であることを理由にその人たちのセクシャリティを「普通じゃない」と言い張ったり「百合は綺麗、レズは汚い」などとほざけたりするなら、その人は冷血人間だと思います。私は『百合霊さん』の主人公のことを畜生だと思いました。
しかし、そんな差別主義者の『百合霊さん』キャストたちが、自らを異常認定して悲嘆に暮れたり、自己矛盾に陥ったり、身内を気味悪がって遠ざけたりするのかといえば、決してそんなことはないんですよ。驚くことに、同性愛は確かに普通じゃないかもしれないけれど、私たちは「ひたむきに、まっすぐに、想いを相手に向けている」から許される。自分たちは選ばれたユリトピア(笑)の住人だ、という
私は「性別を超えるほどの愛は美しい。“女”が好きなのはレズで“貴女”が好きなのが百合」だの「同性愛は一途に真実の愛を貫くなら許される」だのといった言説は死ぬほどくだらないものだと思っています。だって、同性愛なんてありふれているじゃないですか。ただのセクシャリティの一つでしょうよ。いまだに同性愛や同性愛者を肴に禁断の恋だ道ならぬ恋だとピーチクパーチク騒いでいるのは不思議でなりません。くだらないったらありゃしません。それに、人のアイデンティティを許すだ許さないだと上から目線で品評しているのが心底気に食わないです。睦月たたらなる『百合霊』のライターさんは、他者のアイデンティティを不当にスティグマ視して、主人公たちの愛の強さをマンセーする踏み台にするなんてことは、たとえフィクションであろうと下衆の極みだと思った方がよいと思います。
私が『屋上の百合霊さん』に当事者性が著しく欠けていると思うのはこういったところなんですよ。結局、他人事をマジョリティ目線の横柄な態度で書いているに過ぎないじゃあないですか。だって、自分が「普通」の存在であるかないかって、安穏な生活を送る上で避けては通れない命題であり、死活問題じゃあないですか。「普通じゃなくてもいい」「変でもいい」のは、他人事だからですよ。少なくとも私は、自らのアイデンティティはどんなことがあろうとも普通だと思っていたいです。ひたむきに、一途になんざ生きなくても、ずぼらなその日暮らしを続けていても、常に普通であってほしいです。私は、自分とアイデンティティと共有する人々で構成されたコミュニティを「確かに普通じゃないかもしれない」などと平然と言い放てるのは、そいつが人格破綻者か、差別主義者(その人が同性愛者であろうとなかろうと、同性愛差別をする奴はクソ野郎です)か、作り話のぺらいキャラクターだからだと思います。他人事の作り話に過ぎないから、性的指向という生理的な欲求に関係しているアイデンティティを「普通じゃない」扱いさせて、その上で「ユリトピア」(笑)などとお気楽なクソたわ言をほざけるのです。
人間は誰でも――とまでは言えませんが、少なくとも私は不安や恐怖を克服して普通になるために生きています。人一倍臆病な人間なので、常に社会に適合できなくなったり共同体から爪弾きにされたりする恐怖に怯えながら暮らしています。嫌で嫌で仕方ないのに身体に鞭打って一年三百六十五日働きつづけているのも普通になるためです。取りたくもない資格のためにやりたくもない勉強をするのも普通になるためです。思い出したように家族サービスをするのも普通になるためです。友人と遊んで関係を維持しているのも普通になるためです。読書をしたり、映画を見たり、ノベルゲームをやったりするのも普通になるためです。せっせこ筋トレをしてプロテインを飲んで身体を作っているのも普通になるためです。ブログを更新して、拙いなりに自分の意見を発信したり、ビューワーさんの意見を受信したりしているのも普通になるためです。全ては自分が普通になるためと言っても全く過言ではありません。普通になることこそ人生の目的なのです。
また、私は上に挙げたようなアクティビティを継続して形成していく事柄だけでなく、自らのルーツにあるアイデンティティにおいても「普通」であることを希求しています。例えば、私は生まれてから二十余年あまりを日本で過ごしているにもかかわらず、国に対する帰属意識がほとんどありません。選挙も今のところ全て棄権しているていたらくです。愛国心と呼べるようなものは欠片も持ち合わせていないでしょう。しかし、それでも自分が「日本国民である」という理由で誰かから「普通じゃない」扱いをされるのは嫌ですし、誰かが「日本人は確かに普通じゃないかもしれないけれど……」などと持論を展開していたら、私個人のことを指していなかったとしても、その先に続く言葉がなんであろうと、心底不快な気分になります。同様に「日本人である」であったり「黄色人種である」といった理由で普通じゃない扱いを受けるのも絶対に嫌です。また、私は男性であり、異性愛者であり、特定の宗教に属していませんが、それについて普段思うところは特にありません。別段誇りにも思っていませんし、逆に恥ずかしく思うことも全くありません。しかし、こういった自分のアイデンティティの根幹に関わることを理由に「普通じゃない」扱いをされるのは絶対に嫌ですし、ましてや誰かに矯正されるのなんてまっぴら御免です。絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶……っ~~対に! 嫌です。死んでも嫌ですね。断固拒否します。
このような、如何ともしがたいことや生理的欲求に結びついていることを異常扱いするのがどれほどのことなのかは、私の貧困な想像力でもわかります。人の生(性)を否定するんですよ? その人の存在そのものを全否定するのと何ら変わりがありません。それが人に対してどれほどの痛苦を与える行為なのか。私はほとんどの要素において共同体のマジョリティに属していますが、そんな自分でも想像するに難くありません。へっぽこ百合作品の作者さんに、そんなちょっぴりの想像力や共感力すら欠落しているとしか思えないのです(でなければ、よっぽど面の皮が厚いのでしょう)。物書きとしてそういった能力が欠如しているのは致命的だと思います。
『屋上の百合霊さん』のシナリオに訴えかけてくるものが全くなくて、登場人物が書き割りのように薄っぺらく感じられるのは、やはり「当事者性」の欠落が一因であると思います。こいつは主人公たちのための物語ではありません。ひいては読み手である「私」のための、「私たち」のための物語でもありません。百合萌えファッションヘルス「ユリトピア」(笑)のキャストさんが演じる萌え萌え百合ショーでしかないのです。
『百合霊さん』がそこそこの売上を記録して、百合厨から悪くない評価が下ったことは耳にして、私は首をかしげるばかりでした。テキストにしろシナリオにしろグラフィックにしろサウンドにしろゲームデザインにしろ、過去の名だたる名作エロゲーと比べるのもおこがましいほど低品質でしたし、百合ゲーとしても作中で提示される価値観が月並みすぎて、全く評価するところがなかったからです。しかし、背徳感と禁断の恋を強調する作風、「性別を超越する愛」「偏見や障害にも負けない愛」という選民意識をくすぐる要素が、純愛や同性愛に対して妙な幻想を抱いていて、「もっともっと特別なオンリーワン」であることに飢えている厨坊の琴線に触れたのかもしれません。思えば、この媒体で背徳・禁断路線の中高生向け百合作品はあまり無かったですしね。18歳以上が対象の媒体なので当然っちゃあ当然ですが。
屋上の百合霊さん

- 関連記事
-
- 「たった7組」か? 「7組もいる」のか? マジョリティ目線の妄想ユリトピア(笑)『屋上の百合霊さん』
- オクターヴ 秋山はる 感想 すっぱい葡萄の味は
- 『屋上の百合霊さん』に見る「当事者性」の欠落 へっぽこ百合作品の他人事感覚について
- 2013年 この百合ゲーがパチモノくさい!
- LGBTQ情報・百合作品レビューサイト「石壁に百合の花咲く」がリニューアル