アカイイト 感想 傑作百合ゲー、ノベルゲームが到達した最高点の一つ(前編) 

傑作和風伝奇百合アドベンチャーゲーム『アカイイト』のレビューです。あまりにも好きすぎる作品なのでうかつに感想を書けなかったのですが、発売十周年を期に踏ん切りを付けて公開しました。これを読んだ人が作品を再評価するきっかけの一つにでもなれば、それ以上の幸せはありません。
劇中の設定や謎を考察するコンテンツについては既に完成させていて、ものはついでと全面的にリライトしてあります。合わせてご覧ください。
アカイイト シナリオ解読・考察・FAQ
『アカイイト』の面白さとは? ギャルゲーの面白さとは?
単刀直入にこの記事の本題に切り込みます。『アカイイト』の面白さとは何なのでしょうか? その比類なき面白さの根源は一体どこにあるのでしょうか? 私はつまるところ、相手のことを「知る」喜び、パーソナリティの本質に「触れる」喜び、そのことによって世界が鮮やかに「見える」喜びに収斂されると考えています。それは私にとってエロゲー・ギャルゲー・アドベンチャーゲームをプレイしつづける動機でもあります。なぜよりにもよってエロゲーなのか? 映画やアニメや小説や漫画では駄目なのか? シンプルな駄作に心を虚無にされ、延期や完全版商法や分割商法や納期を優先した手抜きに苦汁を舐めさせられ、それでもなおエロゲーという風車に挑みつづけるのはなぜか? その答えは単純明快で、『アカイイト』を筆頭とする一握りの作品があまりにも面白かったからです。
ギャルゲーには「ゲーム性のない紙芝居だ」という批判が常に付きまとっています。読み物として付き合っている自分からすると的外れに感じますが、悲しいかな、余に溢れる作品のほとんどはその誹りを免れません。エロゲー・ギャルゲーの大半はスクラップです。しかし、ごく一部ではありますが、マルチシナリオ・マルチエンディングの特性、人間がセカイの中心にいる構造などを駆使して、既存の活字媒体や映像媒体では表現しかねる素晴らしい世界を創り上げているものも確かに存在します。音楽と画面演出が情感と臨場感を掻き立てる時点で紙芝居とは違うだろうという意見もごもっともですが、それはまた別の機会に語らせてください。
私がギャルゲーをプレイしていて、強く心を動かされる瞬間があります。それは上述したと通り、登場人物の人間に触れる瞬間です。読者はギャルゲーの作品世界に挑むさい、ビジュアルや紹介文、ゲーム本編の共通パートや他のヒロインのルートで見せていた姿から、この人はどんな人間なんだ? 本当はどんな性格で、どんなものが好きで、どんな本性を隠していて、どんな価値観や哲学を持っているんだ? という想像を掻き立てられていきます。およそ名作と呼ばれる作品は、そういった気の持たせ方が悪魔的に巧いのです。そして、その疑問はヒロインのルートを攻略し、抱えているトラウマに手を取って立ち向かったり(俗に「トラウマ解決型」のゲームデザインと呼ばれる)、正体――小さい頃に将来を誓っていた幼なじみ、生き別れた双子の片割れ、前世での恋人、生霊、妖怪変化、かつて主人公の命を救った神様、イマジナリーフレンド、主人公の別人格、未来から来た娘、畏敬する天使様――が判明したり、意味深な言葉の真意やひた隠していた想いが明かされたりすることで氷解します。私はその瞬間の人の本質に触れる感覚、目から鱗が落ちたように人と世界が違って見えてくる感覚が好きで好きで、本当に好きでたまりません。初めて『アカイイト』をプレイしたときに受けたあの衝撃の幻影を求めて、今日もギャルゲーという修羅の国を彷徨っているのです。ジャンキーなんだと思います。
ギャルゲーという媒体は、その構造から自然と主人公とヒロインとのコミュニケーションが話の中心になるわけですが、とりわけ優れた作品ではもう一階層上の、われわれ読者とキャラクターの間のメタフィクショナルな交流・対決をもドラマティックに演出してみせます。そしてギャルゲーの歪な作り、名前の「ギャル」が示すとおりの人間本位な箱庭世界、主人公の目というフィルターを通して人と世界を認識する構図、プレイヤーの選択によって分岐する世界、やがて訪れるヒロインとの対峙という構成は、この演出に最も適していると思っています。他の媒体で『アカイイト』や『AIR』ほど綺麗にあの瞬間を切り取った作品は観たことがありません。
私が『アカイイト』と同じくらい好きな作品に、Key/麻枝准による奇跡五部作『ONE~輝く季節へ~』『Kanon』『AIR』『CLANNAD -クラナド-』『リトルバスターズ!』や、ケロQ/すかぢの『素晴らしき日々~不連続存在~』などがあります。だーまえの作品については、物語の前半でヒロインのことをただのアホの子と思わせるのが抜群に巧い。序盤は突拍子もないキャラクターややくたいもないギャグでげらげら笑わせてくるのに、物語が佳境を迎えるや一個の「人間」として立ち上がり、エゴをむき出しにしてわれわれ読者に牙を剥いてくる。その油断ならなさがたまらなく好きなんですよ。過剰にカリカチュアライズされていて、どこか希薄で記号的な人物造形だったのに、一転して画面から飛び出すような存在感を放ってきます。その豹変ぶりにも真っ当な説得力があり、日常の何気ない部分を思い返すとその人の本質が透けて見えるところが多々あったことに気づかされて、伏線の巧みさ、構成力の尋常ではない高さに驚かされます。『素晴らしき日々』については、群像劇・マルチサイドシステムというゲームデザインを活かした演出が神懸かりです。ある人物の視点では、人々の恐怖を煽る危険分子の救世主や、『二重影』の醜女もかくやのおどろおどろしい地縛霊や、頭のおかしな母親や、理不尽な暴力を振るう悪漢にしか見えなかったのに、別の視点から観測された時には違った側面が見えてきて、まるで別人のように愛おしく思えてくる。あの目が覚めるような感覚の甘美なことったらありません。この演出の極めつけは、各視点の終盤で行われる、屋上での間宮卓司と悠木皆守の対決でしょう。視点の違い、プレイヤーの人間と世界に対する理解度の違いによって、その意味合いが目まぐるしく変わっていきます。あのシーンは複数視点を用いた演出の最も優れた成功例でしょう。
さて、『アカイイト』に話を戻しましょう。この作品の個別ルートは、主人公である桂ちゃんがそのルートのヒロインと交流して距離が縮めていくうちに、その人が関わっていた過去の出来事について詳細が判明し、彼女の抱える痛みを理解して共有することによってさらに絆を深めていく、という形式を取っています。その事件は彼女のパーソナリティに大きく影響を与えていて、あるいは彼女らしさがこれ以上ないほど表れていて、子細を知ることで彼女がなぜそういった人間になったのか、本当はどんな人間なのか、どんな想いを隠していたのかが見えてきて、自然と感情移入していくようになっています。その人のルートをクリアすることがすなわち人格のルーツを知ることであり、本質を理解することに繋がっている。『アカイイト』はこのシンプルな構図が素晴らしいんですよ。単純であるがゆえの明快さで、読者の心にすとんと落ちてきます。この作品のもっとも誇ってよい部分がこのシンプルなデザインではないでしょうか。上の項で、ギャルゲーをプレイする楽しみはその人のことを知る楽しみだと語りましたが、この作品の鮮やかさに匹敵するものはそんじょそこらにはありません。
あの爽快感は、明快なルートデザインの他に、別のルート・別のヒロインへと繋がる伏線が執拗なまでに張られていることからも演出されています。あるヒロインのルートを攻略すると、その人への理解はぐんと深まって愛着が沸きに沸くのですが、同時に他のキャラクターの見せる振る舞いや言動に対して疑問符がふつふつと浮かんできます。葛ちゃんはなぜ人の手が入った食べ物に対して異様に神経質なのか? 他人を病的なまでに警戒しているのにどこか人寂しそうなのはなぜなのか? 烏月さんは基本的に折り目正しくて優しいのに、なぜケイくんを始めとする鬼には敵意を剥き出しにして問答無用で切り伏せようとするのか? 葛ちゃんに対して、生まれた家の宿命について語る言葉に並々ならぬ重みを感じるのはなぜか? ケイくんは鬼切りの関係者ながら主の分霊でもあるらしく、さらに桂ちゃんについても知っている素振りがあるが、本当に何者なのか? サクヤさんは身内を大切にしているのに人の死に対してはさばさばと達観しているが、どうして美人独身二十歳の身空でそんなにすれてしまったのか? 口癖のようにつぶやく「また間に合わなかった」「これで三度目」とは何のことなのか? どうして神様であるはずのオハシラサマ……ユメイさんはわが身を顧みず桂ちゃんのことを守ってくれるのか? 桂ちゃんが彼女に懐かしさを覚えるのはなぜなのか? ノゾミちゃんとミカゲちゃんはどういった経緯で主の眷属に成ったのか? ノゾミちゃんが他人を弱い子、半端物、いらない子と事あるごとになじるのは何か理由があるのか? という具合です。『アカイイト』はこういったルートを跨ぐはぐらかしが本当に巧いんですよ。一つの謎が解決されるたびにまた別の謎が浮かんできて、次のルート・次のヒロインをどんどん攻略したくなる原動力になっています。加えて、乗せられるまま全てのルートを攻略すると、いつの間にか奇麗な年表が頭の中に完成しているコンセプトでもあるのが並々ならぬところなのですが、詳しくは次の段で語っていきます。
王道ビジュアルノベルの系譜
『アカイイト』を『痕』『月姫』の文脈で語るレビューがあまりにも少なかあないですか。少し悲しいです。
この作品が強く影響を受けている作品に、ビジュアルノベルの金字塔的名作『痕』があります。この作品はマルチシナリオ、マルチエンディングの面白さを世に知らしめた快作であるのと同時に、ジャンルの鉱脈をあらかた掘り尽くしてしまった罪作りな存在でもあります。麓川御大その人がこの作品を「やっぱり俺の原点的存在だなあ」と語っていますし、じっさいルートデザインや、主人公が田舎に帰ってきて自分のルーツを知るというプロット、叙述トリックの使い方、一部キャラクターのデザインなどに少なからぬ影響が感じられます。『アカイイト』ファンは抑えておかないと駄目です。必須教科です。
他に『痕』のフォロワーとして知られている作品は『久遠の絆』『月姫』などがあります。各々がそれの面白さを精緻に分析していて、一部分をより発展させています。『久遠の絆』は前世からの因縁が絡むスペクタクル伝奇浪漫の流れを汲む作品ですが、とりわけ心に響くのが、正ヒロインに選ばれず(正史になれず)歴史の影に埋もれたサブヒロインの悲哀に関する描写です。あれは『痕』の初音シナリオを発展させたものだと思うのですが、いかがでしょうか。一方『月姫』は伝奇バトル路線を設定や描写の面においてさらに押し進めているのと同時に、マルチシナリオをより高次元の要素に昇華しています。同じ世界観、同じ舞台、同じ登場人物、同じスタート地点から変幻自在に物語が展開・発展していくさまには感嘆のため息が漏れました。そして我らが『アカイイト』は、『痕』が一部実現させていた「情報分散型」「年表作成型」のデザインを、より洗練させた形で採り入れています。
アカイイト年表
世の中には多種多様なデザインのエロゲーがあり、人によって分類の体系も様々です。私が「情報分散型」と勝手に呼んでいる形態は、各ヒロインのルートに世界全体の情報が分散して割り振られていて、最後の一人まで読み終えることで全容が明らかになって読者の頭の中に完全な世界が構築される、というものです。その中でも、一人目のルートで五年前に起きた事件が明らかになり、二人目で千年前からの因縁が判明し、三人目で十年前の……といったあんばいで、最終的に頭の中で長大な年表が組み上がるデザインを、これまた勝手に「年表作成型」と呼んでいます。
『アカイイト』はルートごとに徹底した情報管理がされています。五本の物語……千羽烏月ルート、若杉葛ルート、浅間サクヤルート、ユメイルート、ノゾミルートとは単体で一応の完結を見ており、そのどれもが力強い物語ではありますが(ここは強調しておかねばなるまい)、桂ちゃんおよびそのルートのヒロインを除く人物の描写や、ヒロインが関わっていない過去の事件の解明においてはいくつもの穴を残しています。理由は単純で、烏月ルートでは烏月さんの、サクヤルートではサクヤさんの人物像並びにその人に重大な影響を与えた過去の出来事を徹底的に描写しているからです。一つ一つルートを読み解いていくごとにキャラクター一人一人に息吹が込められていき、額縁にピースをはめていくかのように、過去の情報が時系列を入れ替えながら組みあがっていきます。そして全てのルートを踏破したときに初めて、過去の情報が隙間なく補完されて、一枚の絵のような世界観が完成を見るのです。あの視界が次第に開けて見えなかったものが見えてくる感覚の、何と甘美なことでしょうか! 灰色だった世界が次第に色づいていくさまの、何と美しいことでしょうか! あの鮮明さは、かつてその分野の傑作であるスティーヴン・キングの『IT』や藤田和日郎の『からくりサーカス』を鑑賞したときのそれにも引けを取りませんでした。この作品における個別ルートのコンセプトが、ルートをクリアすることはその人のことを知ること、人間のルーツを知って痛みを共有することだというのは上述しました。個別の物語における人間ドラマの核になる部分が、そのまま世界全体としての伏線回収に繋がっているわけですね。この辺りは信者のひいき目を抜きにしても本当によく出来ていると思います。
もう一つ、『アカイイト』が年表作成型のADVとして面白いのは、事件と事件の間を繋ぐ謎の人物が効果的に配置されているところです。例えば、白花ちゃんはユメイルートで明らかになるオハシラサマの封印解除事件で姿を消し、その後烏月ルートで言及される明良さんの一件に現れます。ノゾミちゃんとミカゲちゃんはサクヤルートで語られる姫様と主の一件の裏で暗躍し、歴史の空白期間で悪事を働いたのち、ユメイルートの過去編で復活を遂げて悪逆を尽くします。要するに、ユメイルートと烏月ルートは白花ちゃんのルートでもあり、サクヤルートはノゾミルートの一部でもあるんですね。上に挙げた三人(元を辿れば主なんだけど)は作品の過去パート、ミステリーパートを面白くしている立役者でしょう。年表が埋まっていく快感をより多層的に演出しています。後は、最年長者(当年とって17XX歳)で羽藤家に関する事件の生き証人であるサクヤさんの配置もよいですね。巌の民である彼女にしかできない役割です。この人の存在が歴史に一本背骨を通しているし、時折漏らす意味深な発言(「これで三度目……今度こそあたしは……」)が想像を掻き立ててきます。
このような点において、『アカイイト』は偉大な先達たちとの差別化に成功しているのではないでしょうか。この作品は『久遠の絆』『月姫』の並びに加えても何ら遜色のない名作であり、ある部分ではそれらを凌駕していると確信しています。
5つの物語が絡まりあい、寄り合わさってひとつの絵を成す
『アカイイト』という世界の成り立ちについての補足説明です。この作品は5本の話を並べただけの中編集ではありません。同じ地点から始まって異なる世界線を経る5つの物語は、それぞれを侵食し合っています。一本一本の物語は人物と世界観の描写においては不完全なのに……いや、不完全であるがゆえに強く結びつき、一つの豊穣な世界を創り上げているのです。それはたった一つでもルートが欠けてしまえば音を立てて崩れる、危いバランスの上に成立しています。
5本のルートは、ハッピーエンドとしても完璧とは言えません。もっともそれに近い形なのがユメイルートですが、それも白花ちゃんの犠牲の上に成り立っていて、また烏月さんや葛ちゃんの問題は根本的には解決していません。「Kanon問題」のような話になってきましたが、そのルートでのヒロイン以外は完全に幸せにはなれないのです。葛ルートで桂ちゃんに思い出されることのないまま笑顔で封印された柚明さんのことや、サクヤルートで志半ばで主に破れた白花ちゃんのことや、自分のルート以外でフェードアウトした葛ちゃんの未来や、ほとんどのルートで桂ちゃんに自分の正体を告げることができなかったサクヤさんのことを思うと、涙を禁じ得ません。しかし、ある人にとっての悲劇の未来が幾通りも存在するからこそ、桂ちゃんとヒロインが文字通り血を吐く想いで手繰り寄せた幸せが、何よりかけがえがないものだと感じられるのではないでしょうか。これもアドベンチャーゲームが様々な結末を表すことのできる媒体だからこその演出でしょう。
そういえば、「『アカイイト』は全員が幸せになるグランドエンドがないのが不満だった」という意見をよく耳にしますが、私は断じて必要ないと思います。
『アカイイト』より話の展開が巧く、殺陣に臨場感があり、演出が洗練されていて、終盤の盛り上がりが凄くて、どんでん返しが強烈なアドベンチャーゲームはいくらでもあります。しかしながら、この作品ほど一人一人のルートを攻略していくのが快感で、すべての話が絡み合って一つの世界だという一体感を備えているものには、ついぞ出会ったことがありません。
本格和風伝奇の世界観と「神代の再演」について
私は神話・伝奇について造詣が浅く、一次文献に触れたことはありません。知識はほぼ『二重影』『神樹の館』『アトラク=ナクア』『顔のない月』『ゆのはな』『東方Project』などの伝奇ゲームで仕入れたものというていたらくです。そんな自分が言ってもあまり説得力がないかもしれませんが、『アカイイト』は和風伝奇作品としてももの凄く面白かったです。
私がまず感心したのは、「贄の血」という創作概念を広く知られている神話のエピソードや著名な神や鬼、超常の人物の設定に違和感なく溶け込ませることで、信憑性を演出すると共に物語世界に歴史の重みを加えているところです。この作品における因縁の始まりを辿れば、八岐大蛇が生贄に櫛名田姫を求めて、須佐之男命に退治されるところにまで遡っています。恐ろしくスケールの大きいサーガですね。この櫛名田姫が確認されている中では贄の血の始祖で、鬼に比類亡き力を与える血を持っていることから八岐大蛇に狙われたという説明が劇中でされています。時系列で言うと、次に言及されるのは天照大御神への国譲りと葦原中国の平定という日本神話でも美味しいところです。『アカイイト』全体を通しての宿敵が、ここで暴れぶりが確認される国津神の主……天津甕星・天香香背男命ですが、この作品では「カガ」は蛇を表す古語で、彼は大蛇の鬼神である八岐大蛇の子孫であるという解釈を採用しています。サクヤルートで彼が登場する章の題に「黙示録」とあるので、天津甕星とルシファーを同一視する説も採っていそうですが。主は日本三大軍神のうちの二柱、経津主神と武甕槌命でも倒すことが出来ず、結局武葉槌命が一計を講じて調伏するに至ったとのことです。
次のフェーズは浅間サクヤルートの過去編で詳細に語られる部分で、役者が勢揃いします。関わってくるのは、引き続いて主と、われらがヒロイン浅間サクヤさん、ノゾミちゃん、役行者小角、尾花(一言主)らです。主は伏されてからしばらくは経観塚の山神として納まっていました。しかし、戯れに鬼にして手懐けていた藤原不比等の五女……ノゾミちゃんから、竹林に住む長者の娘……カグヤ姫が贄の血を引いているという話を聞き、先祖からの因縁を感じたのか、長い隠遁生活に飽いたのか、彼女を生贄に要求しつつ照日の神に宣戦布告したのです。役小角は姫様と同様に贄の血を引いていて、その力を制御することで神の如き法力を使いこなす修験者です。主が自分と同じく贄の血を引く娘を狙っていること、都から派遣された鬼切部の一団が返り討ちにあったことを聞き、浅間の一族を含む観月の民や一言主と連合軍を結成し、死闘の末に主を打ち倒すことに成功します。しかし、凝り固まった主の魂は役小角の力をもっても還すことができず、やむなく贄の血を引く姫をご神木の人柱にして、封じながら反魂の儀で少しずつ還していくことにします。ここでサクヤさんは猛反発しますが、幼くて力のない彼女には事態をどうすることもできません。月の加護を強く受ける観月の民にあって月のない夜に生まれた鬼子のサクヤさんは、同族の仲間と違うことにコンプレックスを感じていて、むしろ人間の姫様に懐いて慕っていたのです。この時のサクヤさんが感じた、大切な人がいなくなろうというのにどうすることもできない無力感は、彼女の人格に大きく影響を与えることになります。
この後はノゾミちゃんと形を成したミカゲちゃんの暗躍がありますが、あえなく若杉の先祖に良月へと封じられて、観月の民への呪いを置き土産に長い眠りに付きます。主の一派はゲーム本編の時間軸から十年前、桂ちゃんと白花ちゃんが偶然から良月の封印を解いてしまうまで歴史の闇に隠れることになります。
ことほどさように、『アカイイト』における神話には贄の血ががっつりと絡んでいて、神懸かりな力の由来や強力な呪術の触媒として強い存在感を示しています。よくぞここまで作り込んだものですね。
話が逸れますが、2004年当時の私は和風伝奇ゲームに全く触れていなかったのでピンときませんでしたが、有名どころの作品を抑えた今では藤原不比等の五女とかぐや姫、役小角と天津甕星(ルシファー)という並びに興奮しております。伝奇ゲーをプレイしていく楽しさはネタ被りの楽しさですよね。
このタイミングで主題歌公開とかGJすぎる(nix in desertis)
東方・アカイイト元ネタ比較(便乗)
東方・アカイイト・咲-Saki-(new!!)元ネタ比較
閑話休題。加えて、個人的に伝奇作品として評価しているのは、劇中で「神代の再演」を巧みに採り入れているところです。それはなんぞやと言う方は『アオイシロ』から引っ張ってきた以下の解説をご一読ください。
「それはこの儀式が、見立てだからに尽きるわね」
「……見立て?」
「概念がわかりやすいのは、やっぱり呪いの藁人形とかそのへんかしら?」
「藁人形は人の形をしている。だからそれに五寸釘を打ち込めば、藁人形に似ている人にも五寸釘を打ち込んだ影響が出るはずだ――」
「専門用語では類感呪術って言うんだけど、神社でやるお神楽なんかにもそういった面があるのね」
「神話や伝説を舞楽にして演じることで、演者に神を降ろしたり、神話自体を顕現させたりするわけ」
「つまり、神代の再演――」
(『アオイシロ』)
伝奇作品に馴染みのない方は、スティーヴン・キングの『IT』で、ビル・デンブロウが少年の流儀でシルヴァーを駆ってオードラの心を取り戻したところや、『Ever17』のブリックヴィンンル発現などをイメージすると分かりやすいかもしれません。
話を戻しましょう。主はサクヤルートの最終盤において、白花ちゃんの目論見みが敗れたことによってこの世に復活してしまいます。奴は最強の国津神なので、現代の鬼切り役でありまだ年若い烏月さんと、観月の民とはいえ鬼としては半端物で、四つ足の姿(おそらく狼)になれないサクヤさんが二人掛かりで挑んだところで、戦力は文字通り天と地の差です。二人は果敢に攻撃を仕掛けますが、まともにダメージが通りません。サクヤさんはあまりの力の差と、主の本家本元の邪視を喰らったことによって、身体が竦んでしまいます。主はそのままサクヤさんにとどめを刺そうとしますが、そこでわれらが主人公、桂ちゃんがサクヤさんを庇うべく飛び出します。桂ちゃんが主の貫手で貫かれるかと思ったその瞬間、烏月さんがなりふり構わぬ突進で主の攻撃を反らし、維斗の太刀を折られる代わりに桂ちゃんを救ってみせます。サクヤさんはいつもいがみ合っていた烏月さんが見せた誠意に気力を回復しますが、やにわに月が陰りを見せたことで、天はこの期に及んでまた自分を見放したかと絶望してしまいます。ここからの鳥肌が立つような展開は伝奇作品としての『アカイイト』のハイライトであり、人間ドラマの頂点でもあるでしょう。
桂ちゃんは膝の震えを抑えて、サクヤさんを守るために折れた維斗の太刀を構えつつ神である主を相手に見得を切ります。その勇姿にサクヤさんも気力を奮い立たせて、主の前に再び立ちはだかります。そして月は完全に隠されて――と、ここで導入されるのが前述した「神代の再演」です。
「月蝕の夜に生まれた娘……まさか、まさか貴様! 貴様の《力》は、月神に因るものではなく――」
「今日が満月だろうか新月だろうが、そんなことは関係なかった……」
「その荒ぶる弟神、我が祖を討った羅ごうの《力》かっ!?」
(◇月を喰らうもの)
月のない夜に生まれたサクヤさんは、天岩戸の説話から蝕を司る神と言われる須佐之男命の守護を受ける存在だったのです。この場に贄の血を引く娘(桂)、娘を狙う蛇神(主)、娘を守護する羅ごうと縁ある者(サクヤ)、壊れた破魔の太刀(維斗)という「須佐之男命の八岐大蛇退治」の構図が再現されたことで、サクヤさんに蛇神を殺す《力》が時を越えて発現し、主を退けることが出来たのでした。この一連の流れは、烏月さん、桂ちゃん、サクヤさんのそれぞれの格好良さに惚れ直して涙するのと同時に、サクヤさんの出自に関する謎が解け、遠い神話の時代から続いていた因縁が明らかになって決着を迎える伝奇浪漫の感慨にも襲われて、感情の奔流が止めどありませんでした。
「おぬしとて、あの争乱で武葉槌命に服されて以来、大人しくしていたのではないか。まつろわぬ鬼、年経た赤き蛇、輝ける星神よ」
「ほう、そこまで知っているか」
「藤原の大臣が、そのあたりの凡をまとめさせておるのだよ」
「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず――と、唐渡りの書にも記されておれば、こちらは十分に用意をさせてもらったぞ」
「観月の女神は天に在す機織り女。おぬしを服した武葉槌も文を織る神であったな」
「加えて今宵は満月。我らは最大の加護を得ることができる」
(◇千年の記憶Ⅲ 黙示録)
上述した役小角と観月の民と主のエピソードでも天の時、地の利、人の和で以て戦力差を覆す展開がありましたし、ドラマCDの『京落降魔』でも義経(名前から佩刀の材質まで何かと縁があるあの人)と弁慶(巨躯の鬼)の決闘を模したシチュエーションを用意していたので、この演出は麓川御大の十八番なのでしょう。
有象無象を寄せ付けない神懸かり(主は正真正銘の神ですが)の力を有している相手に、碌な説明のないままノリで勝利してしまうのは、個人的に興醒めする展開の一つです。『アカイイト』はそこに神代の再演という神話的、呪術的要素を採り入れることで、説得力とカタルシスを補強しています。しかしながら、設定に裏打ちされていない覚醒と勝利がどっちらけなのと同様に、神話的背景があるからといって、そこに至るまでの筋書きに訴求力がなければ読者は付いてきません。この作品はそこを実に巧くやっているんですよ。人間の強さ、ドラマの強さが設定に全く力負けてしていません。がっぷり四つに組んで、むしろお互いを高め合っています。だからこそ、伝奇作品という枠に収まらずに広範な層に支持されているのだと私は思います。
「……まさか、まさかおぬしは……」
普通ではない特殊な生まれ方をした子供のことを鬼子と言ったりするけれど――
そして鬼が人を越える《力》を持つものならば、鬼にとっての鬼の《力》は――
――けれど。
「まあ、そんなことはどうでもいいね」
そう、どうでもいいことだ。
「あたしは観月の民としてじゃなくて、単なるひとりのあたしとして、大切な人を守りたかっただけなんだ」
人でも鬼でも鬼以外の何者かでも、サクヤさんはサクヤさんなんだから。
(◇月を喰らうもの)
これだけ壮大な伝奇ネタを仕込んでいながら「そんなことはどうでもいい」と言い切ってしまうきっぷのよさが『アカイイト』の魅力ではないでしょうか。
その他にも伝奇要素で興味深かったところをいくつか。この作品は神話、民間伝承、風俗などにまつわる蘊蓄が随所で語られる衒学趣味ゲームとしても有名です。非日常である伝奇作品の雰囲気を醸し出すのに貢献していますし、鬼の関係者の専門家らしさが演出されています。また、話の引き出しが非常に多い上に何かを説明するさいの喩えが面白くて、聞いていて耳が楽しかったです。例えば「鬼」の本来の意味について説明するさいに、公儀隠密・忍者の話が出てきたり(そのこころは烏月ルート参照)、「分霊」という概念について説明するさいに孫悟空が髪の毛を飛ばして分身を作る喩えが用いられたりと、洋の東西を問わず興味深い話がぽんぽん飛び出してきます。そして、蘊蓄に加えて作品独自の概念の説明、秘匿された事件の種明かしと、あれだけ説明のフェーズがあるにも関わらず飽きずに読ませるのは、麓川節のテンポのよさと、渡辺明乃・釘宮理恵・真田アサミら実力派声優のなせる業でしょう。今思えば布陣が凄まじいっすなぁ……。
また、世界観の随所に共通するモチーフ、伝奇ガジェットが用いられているところもポイントが高いです。
蛇神である主の陣営は、禍神(カガ巳)の一族で、本拠地が経観塚(蛇塚)、ミカゲ(巳影、甕気)、依代の鏡(カガ見)である良月、その繋がりでノゾミ(望月)、得意とする術が邪視(蛇視)と、蛇と月のモチーフで統一されています。
オハシラサマに縁ある羽藤家の人員には、笑子(花が咲く)、正樹、桂、柚明、白花とご神木を思わせる木、植物のモチーフが使われています。このモチーフは、エンディングテーマの「旅路の果て」に「白い花咲いたこの木の枝分かれした先見えずにいるけれど いくつかの『もし』の未来も満足りていればいいと」とあるように、どことなくこの作品のゲームデザインを想起させます。「羽」の字は主の魂を虚空に還す蝶(鬼車)のことでしょうか。
真弓さん・明良さん・烏月さんの家である千羽は星に縁があります。まず、千羽党はモデルの千葉氏と同様に妙見菩薩(北斗七星、北極星の神格化)を信仰しています。烏月さんは力を整える際に「オン・マカ・シリエイ・ジリベイ・ソワカ」と唱えますが、あれはサンスクリット語で妙見菩薩に帰依することを誓う言葉です。代々の鬼切り役に受け継がれるのが隕石を打ち鍛えた伏魔の太刀「維斗」ですが、北斗七星に準えた名前であることは間違いないでしょう。なお、浅間の長が維斗のことを「天狗の太刀」と呼んでいましたが、あれは流星の太刀というニュアンスですね。流れ星は天狗が空を燃えるような速さで駆けている様子に喩えられます。千羽妙見流の基本の型は貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、そして烏月さんが本編で披露している破軍ですが、これは北斗七星を構成する星ですね。そして、烏月さんが通っている高校は北斗学院付属高校。名前からして千羽家の系列の学校です。ちなみに校章は熊と変形月星。おおぐま座が北斗七星を含んでいるからでしょう。
そうそう、ヒロインたちは「烏月」「サクヤ(朔の夜)」「ユメイ(夢に居る人)」「ノゾミ(望月)」と、夜……非日常を連想させるネーミングに統一されていますね。その対照となるのが桂ちゃんの日常を象徴する奈良「陽」子なわけです。
他にも、「鬼」「(贄の)血」が全編を通して重要な意味を持っていることは何度か語ってきたとおりです。「双子(の入れ替わり)」は伝奇作品の華であり、エロゲーにおいても欠くことのできない存在ですが(『神樹の館』『シンフォニック=レイン』『水月』『彼女たちの流儀』『ひぐらしのなく頃に』エトセトラエトセトラ)、この点も抜かりなく、羽藤家の双子と藤原の双子の二組が最重要登場人物として世界に配置されています。
こういった偏執的なまでのこだわりが、作品全体の統一感をより一層高めているのではないでしょうか。
麓川智之によるテキストの訴求力
脚本担当、麓川智之の手による『アカイイト』のテキストは、ノベルゲームが辿り着いた最高到達点の一つでしょう。分量自体は少ない部類ですが、とにかく密度が凄まじいです。込められた情報量、何気ない言葉や表現から伝わってくる情感の豊かさが常軌を逸しています。私もいろんなエロゲーをやってきましたが、全ルート全分岐の全テキストを読み込んで解説を書かねばという狂気に駆られたのはこの作品が最初で最後でした。
全ルート共通部
千羽烏月ルート
若杉葛ルート
浅間サクヤルート
ユメイルート
その狂気の産物がこちらになります。上から下まで読めば軽く一、二時間は潰せますよ。このコンテンツは主に他のルートへとリンクしている伏線部分を解説しています。それだけでこの分量ですからね、おっとろしいです。該当箇所にはキャラクターごとのイメージカラーの星(☆千羽烏月ルート、☆浅間サクヤルート、☆若杉葛ルート、☆ユメイルート、☆ノゾミ・ミカゲルート)があしらってあるので、五本のルートがそれぞれ手を伸ばして美しく絡まるさまが見た目にも分かりやすくなっているかと思います。この部分が個々のルートを結びつける膠の役割を果たし、あの途方もない一体感を醸しているというのが私の所論です。
また、上述した情報分散型・年表作成型デザインとしての練り込みを除いても、品質が高いテキストです。
たった一歩で世界が違って見えた。
頬を撫でる風が、涼気を含んで清々しい。
深呼吸しながら仰ぎ見ると、道なりに並んだせいの高い木々が伸びやかに腕を広げ、空一面に緑の木の葉を敷き詰めていた。
風にかき乱されるたびに隙間を透かした陽が降りてきて、白や黄色や薄緑の光の乱舞は万華鏡さながら、刻々と変幻自在の様子を見せる。
わたしはしばし声もなく、その映像に見入って――
――もしくは魅入られていたのか。
あまりに上ばかり見ていたので、二歩、三歩と後ろによろけて、その領地から外れてしまう。
(◇夢で見た景色)
それも鬼切りの技なのか、数歩の助走で全速力まで加速した烏月さんが、縁台を蹴って跳んだ。
放物線を描かない、直線状の軌道の跳躍。
なのに速く、そして遠くへ――
黒髪を流星の尾のように後ろに引いて、維斗を構えた烏月さんが月下を翔ける。
その先にいるのは、サクヤさんを吹き飛ばした主――
ではなく。
「――っ!?」
ユメイさんと対峙していたミカゲちゃんだった。
ああ、そうだ。
ユメイさんが持つオハシラサマの《力》なら、この傷を塞いで生命を拾うことができる。
烏月さんがミカゲちゃんを退治すれば、ユメイさんはここへ来ることができる。
烏月さんはこんなにも、こんなときだからこそ。
嵐に飲まれた海原で、北辰を頼りに帆を上げる船乗りのように――
吹雪に遭った山奥で、北極星を探して歩き出す狩人のように――
暗黒の空に不動星を見出して、迷わず進める人なんだ。
揺るがない心で可能な最善を考えて、すぐさま実行に移せる人なんだ。
そうでなければ人の身で在りながら鬼を相手取り、勝ち残ることなどできないのだろうけど――
さすが、わたしの好きになった人。
(◇揺るがずの星)
再びの轟音と共に夜の帳が引き裂かれ、その隙間から溢れた光が世界に白く焼き付いた。
その中を長く伸びた影が、わたしたちのところまで地面を這い進んでくる。
「くくくく……はははははははっ!」
びりびりした余震がそのまま人の声になったかのような哄笑が、背中の骨にまで響いてくる。
「あれは――サクヤさん、あれは何だ!?」
わたしはこの声を知っている。
「あれが奴だよ……」
わたしはこの姿を知っている。
「あれが主――あたしの祖父さんらが、小角様と一緒に封じ込めた悪しき鬼神だ」
「それでは、封じの柱は……」
「さっきの雷で、完全に破られちまったんだろうね」
知っている、はずなのに――
世界がぐらぐら揺れて見えるのは、わたしが震えているからなのか、本当に揺れているのか。
ひとがたの現身には納めきれない、圧倒的な赤い《力》が周囲の空間を歪ませている。
舞い散る白い花びらは、その歪みに触れただけで燃え尽きたように姿を消してしまう。天を衝くようなご神木さえも、赤い陽炎の向こうで苦しみもがいているに見える。
鬼神――
それはまさに畏怖すべき鬼(もの)だった。祟られぬように斎祭るべき神だった。
かちかちと歯を鳴らすわたしの隣で、ぎりぎりと歯を鳴らす音が聞こえた。
瞳にきんの光を灯して、サクヤさんはご神木を睨みつけている。
「……あたしはまた、間に合わなかったのか」
ご神木から既に事切れているのだろう男の子に目を落として、握った拳を震わせた。
伏せた顔から落ちた何かが――
血溜まりに浮いた月を揺らした。
(◇朱い鬼神)
ふんふむ、一気呵成に読ませますなぁ。和風伝奇の静謐な空気を作る格調高い表現と、平易で嫌みのない言葉の適切な配分。ひらがなと漢字の比率。一クリックに収める情報の正確な見積もり。麓川智之はこの辺りのバランス感覚が素晴らしいですね。そして、みやきちさんが『アオイシロ』のレビューで書いていましたが、「かちかちと歯を鳴らすわたし」「ぎりぎりと歯を鳴らす(サクヤさん)」といった対句法や、「北辰を頼りに帆を上げる船乗りのように」「北極星を探して歩き出す狩人のように」「畏怖すべき鬼(もの)だった」「祟られぬように斎祭るべき神だった」「握った拳を震わせた」「血溜まりに浮いた月を揺らした」といった反復法が死ぬほど巧いですね。このリズム感が読者の首根っこを掴んで離さないのですよ。五感に訴えかける描写も巧みだし、情景喚起力も業界水準を打っ千切っています。
日本語に対するこだわりも見上げたものです。特に慣用句や言い回しの使い方に気が利いています。
それに千羽さんが青珠のお守りに《力》を織り込んでくれたので、わたしは普通の人と同じように暮らすことができるのだ。
そして、今日からは――
どんな鬼がわたしを狙っても、きっと守ってくれるだろう最強のお守りが一緒なのだ。
本人は「おまもり」じゃなくて「おもり」だろうなんて言ってくれるんだろうけど――
(◇ついのときまで)
「葛ちゃん見つけた!」
「ひっ、人違いじゃないですか?」
「わたし、尻尾の出てる知り合いなんて、人違いするほど多くないんだけど」
「えっ!? 尻尾出てます!?」
「出てないよ」
「……え?」
「尻尾を出したな、葛ちゃん」
(◇彼岸の花をつかまえて)
「で、桂はともかく、あんたはそろそろ上がるころなんじゃないのかい?」
「どうして私が」
「烏の行水って言葉があるだろう? 慣れない長湯は身体に障るよ」
「何を言うかと思えば、馬鹿馬鹿しい。重ねた齢にふさわしい――」
(◇犬と猿)
こういったくすりと笑えるじゃれ合い、トラッシュトークから、
ぐるりと一通り見てまわる。改めて、とても広かった。
私が小さい子供なら、走り出したくなるほど広い。
鬼ごっこ。隠れ鬼。家の中だけで十分に遊べる。
(◇幻視行)
「忘却は人に与えられた恩寵のひとつだよ。君はそれを受け入れた方が幸せになれる。今更、藪をつついて蛇を出すことはないんだ
顔立ちは全然似ていないんだけれど、こういう物言いやまなざしの強さは、やっぱり烏月さんと似ているかも知れない
「とにかく、忘れていることを無理に思い出そうとするのはよした方がいいね。何が出てくるかわかったものじゃない。それこそ――」
飲み込んだはずの言葉が、どうしてかはっきりと聞こえた。
「鬼が出るか、蛇が出るか、果ては両方か」
(◇少年と鬼の木)
再プレイ時にはっとさせられる仕込みまで、丁寧に作り込んであります。
御大が万全の状態でしたためたテキストは、私の理想像に近いです。後は殺陣と愁嘆場の書き込みを頑張ってもらって、蘊蓄を大さじ一杯分減らしてもらって、終盤でも筆力が落ちなければ言うことなし!
桂ちゃんの一人称による語り口について少々
この物語は主人公の女子高生、羽藤桂ちゃんの一人称現在進行形で綴られます。途中で語り部が変わったり三人称に切り替わったりすることは基本的にありません。例外的に、サクヤルートとノゾミルートでは贄の血を吸われた影響によって相手の視点で過去の夢を共有し、烏月ルートでは一時的に白花ちゃんに憑依して視点が移動しますが、全体に占める割合は桂ちゃんその人による観測が圧倒的に多いです。あまり注目されないことですが、あれだけ多くの魅力的なキャラクターと、あれだけ複雑に入り組んだ世界観・人物相関を一人称で語りきったのは驚嘆に値することではないでしょうか。半端な構成力ではありません。
文体を一人称現在進行に絞るさいの制約は、視点の移動が主人公の移動と伴わなければならないこと、フラッシュフォワードによるもったいぶりが効かないことなど様々です。しかし、そのもっともたるものは人物描写と情報の提示に対する制限でしょう。早い話が、インタールードをがんがん挿入して、三人称視点で心理描写を書き連ねれば、登場人物の性質や行動原理を表現するのは簡単なんですよ。しかし、麓川御大はあくまで一人称を貫き、代わりに印象的なエピソードにおける振る舞いでその人らしさを表現し、あるいは台詞の端々――口調から口癖、慣用句の選び方までありとあらゆるところ――に性質を反映して感情を滲ませることによって、まこと人間くさくて魅力的なキャラクターを描写することに成功しています。よい仕事してますね。
当然のことですが、全知全能の存在にもなれる三人称と違い、一人称の語り部はあくまで物語の一部に過ぎず、自分の知り得ない情報はうかうかと口に出すことはできません。そのような情報は他のキャラクターの口を通じて、それとなく語らせるほかないのです。それはともすれば、説明口調が延々と続く事態に陥ったり、情報過多で読者の脳みそをオーバーフローさせたり、物語の方向性が失われてしっちゃかめっちゃかになったりする危険を孕んでいます。『アカイイト』がその轍を踏んでいないのは、個別のルートで明かされるのは基本的にそのヒロインに関する情報だけ、というコンセプトがあるからでしょう。結果として物語に筋を通して脇道に逸れるのを防いでいるし、読者は切り分けられた情報を噛み砕いて整理することができるわけです。
そして、そこまでの労力を払ってまで桂ちゃんの一人称語りを守り抜いた甲斐はあったのかというと、私は大いにあったと確信しています。それは羽藤桂ちゃんを数あるノベルゲームの主人公でも特異な存在たらしめる要素の一つであるし(何せわれわれは全編を通して桂ちゃんの価値観で世界を見つめるのだ)、物語に一貫性を生んでより没入感を強くしている要因でもあります。また、『アカイイト』の個別の物語が彼女とパートナーの一対一の関係を中心に書いている以上、避けては通れない道だったとも思います。
羽藤白花ちゃんという漢
私は羽藤白花ちゃんが好きです。白花ちゃんという最高のサブヒロインもとい影の主人公がいなければ『アカイイト』をここまで持ち上げていなかったでしょう。悲しいことに、ネット上に溢れる『アカイイト』のレビューで「百合ゲーなのに男の主要人物がいる。しかも、物語上で重要な役割を担う人物だったりする。百合ゲーなのに」(原文ママ)だの「ケイくんみたいに犠牲になって百合の踏み台になる男は許せる」だのと、彼を雑に扱う表現を見たのは一度や二度ではありません。嘆かわしや。そんな心底どうでもいいことでしか彼を語れない時点で、哀れな百合厨かこの作品の魅力をろくに理解していない輩であることが丸わかりです。この長ったらしい記事をここまで読んでくれるほどのアカイイト好きである諸兄諸姉には今さらすぎますが、白花ちゃんの存在なくしてこの物語は成立しません。それほど彼が果たしている役割は大きいのです。
幼き日の白花ちゃんは、ノゾミちゃんとミカゲちゃんの謀りで桂ちゃんと共に主の封印を解いてしまい、そのせいで最愛のゆーねぇ……柚明さんはオハシラサマの継ぎ手と成らざるを得ませんでした。さらに彼は漏れ出た主の分霊に取り憑かれて、父親である正樹さんを殺害してしまいます。そのまま主に意識を乗っ取られて姿を消し、人を襲っていたところを、彼を討伐しに訪れた千羽党の鬼切り役、千羽明良さんに保護されます。明良さんは見鬼の技で白花ちゃんの中に別の魂が巣くっていることを見抜いたのです。また、これは運命と言う他ないですが、白花ちゃんたちの母親である真弓さんは千羽党の先代鬼切り役で、明良さんの師匠筋に当たる人物だったのでした。先代を尊敬していた明良さんは、彼女が切るべき鬼……若杉に楯突くサクヤさんと意気投合して交流したことに倣い、白花ちゃんを匿ったのです。そして白花ちゃんに覚悟を問い、主の分霊を制御し、また自らに流れる贄の血の《力》を制御してオハシラサマに成ることができるように、門外不出の鬼切りの技を授けたのでした。これが後に、白花ちゃんを庇った明良さんを烏月さんが斬るという悲劇へも繋がるのですが……。そして、ゆーねぇをオハシラサマのお役目から解放するべく経観塚を訪れた彼は、同時に烏月さんをあの地に呼び寄せることになります。ある意味で彼は桂ちゃんと烏月さんの月下氷人でもあるわけですね。ことほどさように、白花ちゃんの決意と行動が多くの人の運命を動かしていて、特に羽藤家と千羽家の因縁をより強固なものにしています。『アカイイト』を贄の血を引く羽藤家のサーガと考えるなら、烏月ルートにおける鬼切部や千羽家の話は、かつて羽藤家と人の出入りがあったとはいえ傍流とも捉えられます。しかし、両家と縁の深い白花ちゃんがそこを巧く補っています。彼の存在が各ヒロインのルートを束ねて連帯感を生み出し、物語世界に一本の太い芯を通しているのです。
そして、烏月ルートでは失われかけた一子相伝の奥義を伝授する師匠の役をこなしつつ、主の分霊に身体を乗っ取られて最後の敵になり、サクヤルートでは(行動原理と信念に従ってではあるが)主の封印を解くことで事態を悪化させてしまい、ユメイルートでは彼女を解放する唯一の手段としてキーマンとなり、その他にも非日常に踏み込もうとする桂ちゃんや視野狭窄になった烏月さんを諭す賢者の役割をも担っています。彼の行動次第で物語は刻々と様相を変えています。『アカイイト』のマルチシナリオを面白くしているのは、間違いなく白花ちゃんなのです。
白花ちゃんは例えるならば、『月姫』のアルク・シエルパートと遠野家パートを結びつける存在で、転成後の姿だったり本体に自我を乗っ取られたり秋葉に吸収されたりとルートによって形態を変えて現れる某蛇の御方であり、『素晴らしき日々~不連続存在~』の我らが救世主であらせられる間宮卓司編と世界を裂く女の高島ざくろ編を繋ぐ某科学少女であり、『CLANNAD -クラナド-』の古河家と伊吹家、そして街と幻想世界のパートの橋渡し役となる某ヒトデマニアであり、『Remember11 -the age of infinity -』のスフィアと雪山の両方に存在する某トリックスターであり、『My Merry May』『My Merry Maybe』のキール議長みたいなバイザーを付けたお兄さんであり、『俺たちに翼はない』の皇帝であり、『パワプロクンポケット9』の泣けないなんてくやしいあの人なのです。
ところで、『設定解説ファンブック』によると、初期案ではこの作品の主人公は男の子だったそうです。しかし、御大が当時加納朋子や恩田陸の女の子が主人公の作品にハマっていたのと、男子が女の子の妖に血を狙われて右往左往する絵は様にならないという理由で女主人公に変更になったのだとか。白花ちゃんは設定変更に伴い押し出されるような形で裏方に回ったのだと思いますが、この没案から生まれた偶然の産物とも言えるキャラクターが、作品全体の完成度を上げるのに寄与しているのは何とも面白いですね。芸術はわからないものです。
そして、自分のせいで犠牲になった最愛のゆーねぇを解き放つというただそれだけの為に苦難の人生を選び、代わりの柱と成ることを厭わない決意は、ヒロインたちのそれと比べても遜色のないものだと思います。彼は『アカイイト』の愛や絆についての思想を体現する漢と言っても差し支えないでしょう。
アカイイト レビュー後編に続く
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