サクラノ詩 /サクラノ刻 感想 幸福というのはこういうことだ、これでいい 

群像劇は『素晴らしき日々~不連続存在~』よりいっそう重層的で入り組んでいて、因縁が絡み合って解き解れ、生と死と愛と哀が交錯し、美と醜が対比され、呪われた生と祝福された生、悲嘆に暮れる悲劇とまばゆい幸せとが糾えて語られ、あるいはそれらに本質的な違いなどないかもしれない。友情が魂を昂らせて、時に悲しみで身を引き裂き、子が親の背中を追う一方で親は子に救われ、弟子が師に導かれて師は弟子に教わり、天才同士が試し合って高め合い、凡才が天才の喉元に喰らいつく。そのさまは少年バトル漫画の文法で、すかぢのペダンチックでペシミスティックな浪花節はさらに冴え渡っていた。
本作では『終ノ空』『すばひび』の流れを汲む生と死、世界と他者と自我、幸福という認識力学に加えて、芸術と創作、美という要素がドラマの中心に据えられている。考えてみれば、美の形而上学たる芸術とこましゃくれたフィロソフィーというすかぢ節の相性が悪いわけがなかった。読み終わった後では、この題材を取り上げるのは必然だと思うほどだ。また、『すばひび』で全国のオタクくんに『猫と共に去りぬ』と『シラノ・ド・ベルジュラック』を借りさせた好き語りの饒舌さも健在だった。マネやゴーギャンのような実在の芸術家と彼らの作品に関するエピソードが、物語の展開に沿う形で巧みに語られる。制作の場面では顔料やキャンパス、陶土や釉薬といった画材の詳細から描画、練りや窯入れなどの技法までが丹念に描写されていて、飛び交う専門用語や符丁、作品批評の審美眼はもっともらしく、臨場感にぐいぐいと引き込まれた。素人意見で申し訳ないが、知識欲と学術的興味をいたく刺激されて、美術ものとしても非常によく出来ていると思った。
言及は美術のみならず、童話から演劇、詩、戯曲、ロックにまで多岐に渡り、さらにはエロゲーという分野にもほんの少し触れるというサービスぶりだ。すべての始まりと世界観の根幹には本格的な伝奇要素が関わっており、内容的多様さは『すばひび』を凌ぐくらいだ。
すかぢの作家性について。
私は作家だとスティーヴン・キングや麻枝准が特に好きなのだが、彼らの作品には幾度となく繰り返される場面・構図がある。五冊、十冊と読み込んでいくうちに、やつが何を書こうとしているのか、ありていに言えば作家性が自然と理解されてくるのだ。端的に言うと、キングは時間を超越する魔法と、時の流れから取り残されていたものをすくい上げる瞬間の感慨をずっと綴っていて、だーまえはワンパターンの誹りを受けようとも、ただのアホの子だと思わせていたキャラクターが主人公もとい読者に牙を剥けてくる衝撃と、輝く季節へ到達するための断絶の儀式、他者との対決と自我の回復の過程をがむしゃらに書きつづけている。
すかぢ先生についても、やつが語りたいのはこれなんだ、書きたいのはこの瞬間なんだというのがわかってきて、ますます好きになってしまった。
でも今は、単純な意味でこの女を憎む事は出来なかった。
このバカは、バカなりに愛した人間の幸福を考えた結果がこれだったのだから……。
それでもやはり俺は……、
「この女は馬鹿だよ……本当に馬鹿だ……」
「うん……そして娘の私もまた……」
「ああ……」
すべての元凶だと思われた人間すらも……そんなに分かりやすく悪の根源とはなってくれなかった。
もちろん罪が無いわけじゃない。
こいつの罪は、無知と無能と馬鹿正直だった事……。
馬鹿が馬鹿なりにがんばった結果がこれだったのだ……。
(『素晴らしき日々~不連続存在~』)
何かに人生を狂わされて人や世界を呪った人間が、ほんのわずかでも幸せを見出すことの尊さ。忌むべき悪漢として描かれていた人間がふと垣間見せる人間性、ひた隠していた想いが明らかになる瞬間の切なさとやるせなさ。こういった人間模様が一筋縄でいかないところ、どこか座りが悪くてきれいに腑に落ちてはくれないところがすかぢ節の魅力だと思うのだが、みなさんはどうでっしゃろか。
呪われた生、祝福された生。
すかぢは『素晴らしき日々』『サクラノ詩』『サクラノ刻』を三部作と位置付けているが、三作に共通するエッセンスとして、幸福と不幸、生と死、祝福と呪いとの不可分が挙げられる。
「……最初の質問……死が恐いかどうかだよな」
「死は恐いさ……でも死は誰にも訪れない……それは事実だが、そう分かっていても恐い……」
「死の恐怖は……自らが祝福されている事と……呪われていると思う事から始まる……」
「もし、祝福も、呪いもなければ人は死を恐怖しないだろう……それは動物がそうである様に……」
「祝福が人を苦しめ、呪いが人を苦しめる」
「そして祝福が人を救い、呪いが人を救う」
(『素晴らしき日々~不連続存在~』)
禍福は糾える縄の如し。このメッセージはともすれば、幸福な日々は簡単に終焉を迎え、一時の幸せには何の意味もないという残酷と捉えられかねないが、私がこの三作のドラマから受け取った印象はまるで違うものだった。死という誰も体験することができない未知の恐怖を迎えるときに、傍に寄り添ってくれる人や安寧を願ってくれる人がいる。愛する人の死という身を裂かれる悲しみを分かち合い、死を悼んで一緒に歩いてくれる人がいる。さらには、悲しみに暮れる人が幸福と不幸の狭間で美を見出し、その感情を閉じ込めた絵画が自身の魂を癒し、どこかの誰かに希望として伝わっていく、大いなる意味となる始まりとなることもある。丹念に積み重ねられた生と死、悲しみと祈りと再起のエピソードは、この面はゆいアンセムを静かに物語っていた。
世界の限界を超える詩(絵画)とは? 瞬間を閉じ込めた永遠とは?
世界のさ……世界の果てのもっともっと果て……。
そんな場所があったとして……、
もし仮にボクはその場所に立つ事が出来たとしたら……やっぱりボクは普通通りにその果ての風景を見る事が出来るのかな?って……。
これが当たり前って考えるって……なんか変だと思うんだよ。
だってそこは世界の果てなんだよ。
世界の限界なんだよ。
もしそれをボクは見る事が出来るなら……世界の限界って……ボクの限界と同義にならないかい?
だって、そこから見える世界は……ボクが見ている……ボクの世界じゃないか。
『素晴らしき日々~不連続存在~』
「卓司……あなたは死ぬの恐い?」
「死ぬのは恐いのかしら……」
「当たり前……そうあなたはそれを当たり前というけど……死を怖がるのは当たり前じゃないの……」
こ、この言葉……。
「死は誰にも経験出来ない」
「死を体感する事は出来ない」
「死を引き寄せて……それに寄り添って、人は何となく想像出来るものへ……体感し経験出来るものの様に死を変換してしまう……」
『素晴らしき日々~不連続存在~』
作者の意図と合っているかはわからないが、私はシンプルに、「死」という如何ともしがたい事象に寄り添う作品、「自分」の限界を超えて「あなた」に響くことができた作品のことで、時には作品に込められた感情や人間性が時代や場所を超越して誰かの心を動かすことだと解釈した。健一郎が最愛の人を亡くしたまさにその時に最高傑作を完成させ、自身が死の淵にあるときに、ある人が捧げてくれた絵を見て人生を噛みしめたように。また、彼が穏やかでない目的で描いたある娼婦の画の模写が、何年も経った後でその視線である女を射竦め、結果的に得難い出会いへと導いたように。幼い真琴が偶然にあの絵を見て、魂の平穏を願うような優しさに救われたように感じたように。若き日の静流が、密かな目的で創り上げた作品で図らずも友人の心を動かしてしまったように。あるいは、何もかも色褪せて感じられた学生時代の太田光が、たまたま見たピカソの『泣く女』の表現の自由さに驚かされ、感動する心を取り戻したように。
「そして、多くの観衆はその時に、この絵画は、他ならぬ自分が書かれていると思うものさ」
「作者は自分であり、そして自分は作者である……そういう感覚が芸術の根っこにはある」
「これは絵画だけじゃない。文学なんかもっと分かりやすくそういう性質がある」
「太宰でも芥川でも谷崎でも漱石でも百閒でもなんでもいい」
「だが名作と言われる文学は得てして読者に、これは自分のために書かれた、自分だけの作品であると思わせる力がある」
(『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』)
『すばひび』の総評で似たようなことを書いたが、何より個人的な作品だからこそ、特殊から普遍へと飛躍した。幸福という語りえぬものの尊さを謳う「世界の限界を超える詩」となった。「横たわる櫻」「櫻日狂想」を始めとする劇中作は、だからこそ捧げられた人のみならず多くの人の心を動かしたのだと思うし、それはまた『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』という作品そのものもしかりだろう。
最後に、作品の完成度を損ねている点についてもひと言ふた言。あの思わせぶりな登場人物は、あの意味深なカットは何だったのか? という、幾度とない延期と路線変更による歪みとおぼしい箇所が、特に『刻』で散見された。『すばひび』も言ってしまえば『終ノ空』を魔改造したがゆえの強引さがあるのだが、あちらは終わってみればわかるがドラマの構図が至ってシンプルで、示唆に富むが簡潔明瞭なメッセージが一本の芯を通していた。あとは、実在の芸術作品や芸術家、描画の技法や作品批評にまで言及し、公募展や歴代の応募者である画家を創作して作り上げた、いわゆるリアリティレベルの高い世界観と、最終章の展開にまで関わる超自然的要素が若干食い合わせが悪く感じた。何だろう、皆守が佐奈美の血に依る明晰夢の力を使って高名な格闘家をいてこますような展開はあんまり見たくない、しがないプログラマーとしてどうにか生計を立てているのがいいんだ、という感覚だ。これは好みの問題だろうか。
そのいびつさを差し引いても、別格の出来だった。私は『素晴らしき日々』がすかぢ(SCA-自)/ケロQ(枕)の最高傑作だと思っているが、それはノベルゲームのどこに美(カリス)を見るかという話だけであって、『サクラノ詩』『刻』と評価が逆の人がいたとしても、何の疑問も湧かないし異論をはさむ余地もない。間違いなく双璧を成す集大成的傑作だ。
その他もろもろ。
とにかく胸を打つ場面と名セリフに事欠かない作品だったが、特にぼろ泣きしたところを三つばかし厳選して挙げる。「櫻七相図」に銘を入れるところ、「我々が何のために作品を作るのか」という作品の内外を貫く問いがリフレインするところ、そして前述の通り、最終エンディングで寧と一緒に映っているある人物の貌だ。すべて一致した人がいたら、今度飲みに行こう。
もし、劇伴が素晴らしいエロゲー・ギャルゲーを一本だけ選べと言われたら『すばひび』か『アオイシロ』を、ボーカル曲のそれなら『サクラノ詩』を推す。「櫻ノ詩」はベスト・オブ・ベストだ。
私はなんでか、『夜、灯す』の有華の父親のように、少しの出番しかないのに泣かせてくるキャラがたまらなく好きなのだが、本作では圭のギャラリストだった吉田さんが好きだ。
サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-
サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-

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