素晴らしき日々~不連続存在~ 感想 幸福、幸福ってなんだ? 

『素晴らしき日々~不連続存在~』の概要はひとくちには説明できない。電波オカルトにサイコサスペンスにジュブナイル、哲学に量子力学に形而上学、叙述トリックにメタフィクション、クトゥルフ、文学に戯曲に童話、スピリチュアル格闘ロマン、果ては同時代を生きたサブカルチャーへのリスペクトといった要素が、強烈な登場人物たちの群像劇という強靭な骨格に過積載されている。そのカオスの様相は三大奇書や三大電波ゲーム(セルフオマージュ)が引き合いに出されるほど。ケロQの文脈で語ると、『終ノ空』の優れた構成とシリアスな笑いと思索の冒険ととっぽい衒学趣味とセンチなドラマツルギー、『二重影』『モエかん』の内容的多様さとストーリーテリングの流れを汲み、『H20』で見られたシナリオゲームへの歩み寄りがより強度を高めて進められている。そして思想は『サクラノ詩』へ引き継がれてさらに先鋭化される。
私が『すばひび』を読んでまず目を見張ったのが、シナリオの充実度とキャラクターの圧倒的な存在感だ。バックボーンと行動原理という血肉の通ったキャラクターが、時には想像もつかぬ明後日の方向に突き進んで予想を裏切り、時には青春活劇の王道をひた走って期待を越えていく。私は過去作『終ノ空』『二重影』を「めちゃくちゃ面白い読み物」という以上の評価はしていなかったので、これほど真に迫る人と人との物語を創り上げてきたことに驚かされた。おみそれした。この作品は総体としていくつかの思想を打ち出しているが、それが読み手に対して発言権を勝ち得ているのは、人間が物語を動かす推進力があってこそだと私は思っている。
また、マルチサイトのADVとしての完成度にも感服した。シナリオごとの情報の秘匿と開示による演出はエロゲーの伝統芸能だが、この作品ほど世界と人の見え方について鮮やかに表現するそれを私は知らない。私が特に美しいと思ったのが、複数の視点で繰り返される、C棟の屋上におけるさる人物とある人物の対峙のシーンだ。あのひときわ胸を打つ場面は、誰の視点かによって……シナリオの進行度、登場人物と作品世界に対する読者の認識によって、その意味合いがまるで変わってしまう。目から鱗が落ちるような、ずれていた歯車が噛み合って駆動するような、胸の空く感触。あの感慨はじっさいに鑑賞した人にしかわからないだろう。
以下、直接的ではないが若干のネタバレと、作品の解釈を狭めるかもしれない記述があるので未読者は注意されたし。

『素晴らしき日々』という作品を貫くメッセージ、キーフレーズをひとつ抜き出せと言われたら、ほとんどの人は「幸福に生きよ!」を選ぶだろう。幸福に、生きよ。普遍的で、強力無比で、簡潔明瞭な哲学である。しかしながら、この哲学もといアンセムは全人類的であるがゆえに、あいまいでがらんどうで複雑怪奇だという矛盾を孕んでいる。つまるところ「幸福に生きることが幸福である」というトートロジーでしかないからだ。だもんだからえらい人も「……ということより以上は語りえないと思われる」とぶっちゃっけている。そこから必然的に辿り着くのは、「幸福とは何か」という問いだろう。だがしかし、幸福というクオリアはそれを観測する個々人に拠るものであり、一意な定義を試みる行為は本質を伴っていない。近所の八百屋の親父でも、スーパーのレジ打ってるおばさんでも、タクシーの運ちゃんでも知っている真理は、今昔の哲学者や思想家が挑んだ永遠の命題でもある。
この如何ともしがたい逆説に対して、『すばひび』は「俺」や「ボク」や「私」たちが、「あんた」や「お前」や「キミ」との対峙の中で幸福を見出すさまをただただ書き出すことで抗っている。数奇な生まれと運命に翻弄されて全てを見失った者が、自らと大切な人の存在を賭けて掴み取った奇跡。頭のいかれた救世主が妙な因果から傍の者にもたらした福音。地獄への道をひた走る使徒がそこに落ちるまさにその時に見出した幸せ。臆病者とその友人がなけなしの勇気を振り絞って勝ち取った日常。ヒーローを信じて待ち続けた少女にようやっと訪れた救い。そして、人の道を踏み外して正体を失くした者がいつか気づくかもしれない小さな幸せ。こうした風景がしっかりと焦点を結んでいるのは、人間の存在感の為せる業だというのは先述した通りだ。そして、上記の幸福に関するコンセプトは、結果として、それがどこに拠って立つものなのかを端的に示しているのではないだろうか。
この作品の正史・正規ルートは、おびただしい死と不幸で敷き詰められている。非業の死と不運がせわしなく襲い掛かり、登場人物は不和と不信の悲嘆にくれて悲劇の道を歩いていく。そんなおぞましくも物悲しい滑稽劇の世界観で、裂けた可能性の世界に存在するたっとい幸福の形、あるいは那由他の彼方にある場所で見出されるくるおしい幸福の姿は、強烈なコントラストでわれわれの目に焼き付いてくる。
わたしは恐るべき真実を知った――救済と呪いのあいだには、本質的なちがいなどなにひとつありはしない、と。
(スティーヴン・キング『グリーン・マイル』)
「えいえんはあるよ」
彼女は言った。
「ここにあるよ」
確かに、彼女はそう言った。
永遠のある場所。
…そこにいま、ぼくは立っていた。
(『ONE~輝く季節へ~』)
もう滅びつつある人と世界には 語りかける必要はない
僕ら生まれ変わる新しい人に 最後のGenesisをこえて
(『未来にキスを』「Kiss the Future」)
もう一つ、私が『すばひび』のエッセンスだと考えるフレーズが「自分の限界」と「世界の限界」だ。以下の問いは作品の導入部で投げかけられるものなので、まるっと引用してもバチは当たるまい。
他人も含めた世界って何だ?
世界が俺なら、他の連中は何だ?
それらも世界を持っているのか?
だったらそれは別々の交わらない世界なのか?
それともその世界は交わる事が出来るのか?
すべての世界……すべての魂は……たった一つの世界を見る事が出来るのか?
俺が見た、世界の果ての風景。
世界の限界。
最果ての風景。
その時に、お前も同じ様に世界の果てを見るのだろう。
お前が見た、世界の果ての空。
世界の限界の空。
最果ての空。
俺は、お前と見る事が出来るだろうか?
そこで同じ世界の終わりを……。
違う空の下でありながら……同じ空の下で見るんだ……。
このさかしらで、しかし実存へのクリティシズムを同封した問いは、前作『終ノ空』と同一の存在である音無彩名が唱える甘やかなタナトスの言葉と同義ではないだろうか。
「水上さん……こんな話……知ってる?」
「?」
「……世界には何人の魂があれば足りるか……」
「それはどういう意味?」
「そのままの意味……」
「世界に必要な数の魂……たぶん……一つで十分……」
そう、世界はたったひとつの魂で成立し、満たされてしまうのだ。このぞっとする甘美な事実に、真正面から向き合うことができるだろうか。
この作品を構成する物語は、どれも「他者」の存在が起点となっている。目を覆いたくなるほどの陰惨な悲劇も、目が眩むほどまぶしい幸せも、いつだってはじまりとなるのは自分の世界を脅かす他者の到来である。このことを心に留めて全体を読み通すと、また違ったものが見えてくるんじゃあないだろうか。自分ひとりでも満たせる世界。精神的に何ら不自由することのないえいえんの世界。それをおびやかす他者がもたらすのは、幸福か、不幸か? 呪われた生か、祝福された生か? あるいは、両者に本質的な違いなどありゃあしないのだろうか? 答えを出せるのは「わたし」と「あなた」だけである。
何より個人的な物語であるがゆえに、「私の翼」によって特殊から普遍へと飛躍した。幸福という語りえぬものの尊さを謳う「世界の限界を超える詩」となった。私は『素晴らしき日々』という作品をそう解釈している。
言いたいことはだいたい言い切ったので、その他もろもろをつらつらと書く。
ぼくは希実香がすきです。シナリオ(世界線)をまたがって縦横無尽に活躍するキャラがだいすきです。
音楽がとにかく素晴らしい。劇伴もボーカル曲も、サウンドから曲展開から歌詞まで非の打ち所がない。よく知られているのは「空気力学少女と少年の詩」と「夜の向日葵」で、これはもうエロゲーソングやエロゲBGMという枠を超えて評価されている。私は「ナグルファルの船上にて」や「音に出来る事」「夏の大三角」も大好きだ。
立ち絵に背中を向けたパターンがあるが、いろんな奥行きが感じられてなんか好き。
同性愛を含むジェンダーのあり方に対する偏見と暴言がひどくて、あまりにもひどすぎて怒りがこみ上げてくる。特に序章は、百合ゲーとして評価するならうんちっちである。時代錯誤で誰も得をしない描写はとっぱらってもらいたい。こんなに面白い作品をくだらない描写のせいでおおっぴらに勧められないのは悲しくて仕方ない。
わかる人にはわかる話だが、とある作品が『すばひび』とほぼ同時期に発表されたのはシンクロニシティのようで面白い。あれはこの作品に比肩するエロゲーのマグナム・オーパスだと私は思うし、たぶんみんなもそう思っている。
素晴らしき日々~不連続存在~

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