智代アフター ~It's a Wonderful Life~ 感想 越えてはならない一線を踏みにじったいんちきファンタジー 

2005年に発表された大作の続編はどれも酸鼻を極める出来だったと思うが(『智アフ』『ひぐらしのなく頃に解』『Fate/hollow ataraxia』)、この子は関連作品に過剰な思い入れがある分むかっ腹が立った。頭に血が上って目が眩みそうになった。魁の陳腐なシナリオを読んだときもここまで失望はしなかったし、城桐央の電波シナリオを読んだときもここまで落胆しなかった。
『智代アフター』の何が嫌いかって、中途半端な現実感と、中途半端に開けた世界と、メッセージの押しつけが嫌いだ。確かにKey作品は『ONE』から『リトルバスターズ!』に至るまで、読者の視点を意識した大仰な演出・展開が少なからずあった。だが、『智代アフター』の物語の構造――智代が使命感を持って不特定多数の人間(われわれ読者)に感動の体験を配信している――はいくらなんでもやりすぎだ。この構造が半端なリアリティと感動の押しつけがましさに拍車を掛けている。
シナリオに話を移そう。私が何より許せなかったのが、終盤のともシナリオで、河南子が心を病んでいる人たちを一週間かそこいらの付き合いで癒してしまったことだ。
「かなちゃん、という存在が作用したのよ」
「…?」
「きっかけはちょっとしたことだった」(略)
「次の日も、かなちゃんは同じことをした」
「また別の人が、彼女に気を許した」
「そうして、かなちゃんは、ここの住人と仲良くなっていったの」
「いつしか、いろんな人たちが厨房に集まって、お菓子を作ってた」
「みんな笑いながら」
「まさか、と思う人までね」
「みんな、生き甲斐を持ったように、はつらつとして」
「どうしてだと思う?」
俺は首を振った。
「生き甲斐ってのはね、変化への欲求でもあるのよ」
「人は生活に変化がなくなると、退屈を感じるものなのね。それはその人が健康な証拠」
「退屈を感じなければ、その人の心は病んじゃってるのよ」
「ここにいる人たちはここに来る前からそうだし、ここにきて変化のない生活を続けるうちに、みんな、退屈を苦ともしなくなっちゃってたの」
「でも、そんな村に初めて、変化していく存在が現れたわけ」
「それが、かなちゃん」
「育児に追われる母親は、子供の日々成長する変化に生き甲斐を感じていく」
「老い先短いお年寄りも、孫の成長を喜ぶものでしょ?」
「こう言っちゃかなちゃんに悪いけど、それと同じね」
「かなちゃんは、子供のように笑って、喜んで、お菓子作りを覚えていった」
「それが彼らにとっての、生き甲斐になったんだと思うの」
「でも、それを目の前でこんな短期間のうちによ…?」
「奇跡を目の当たりにした気分だわ」
あいつが、そんなことをやってのけたなんて。
俺も信じられない。
(8月17日)
私も思わずわが目を疑ったよ。なーにが「かなちゃん、という存在が作用したのよ」だこの野郎。
Keyゲー、それも麻枝准のシナリオを読んでいて、こんな陳腐な奇跡を見せられる日が来るとは思いもしなかった。確かに折原浩平や沢渡真琴や神尾観鈴は、病める人とも解釈できたかもしれない。Keyゲーのお約束である不思議病は、重篤な精神の病のメタファーだったかもしれない。だが、それと、精神病を患っている他人をほいさっさと片手間に治してしまうのは話が全く違うだろう。あの施設にいた人たちは、人生を捨てざるをえないほどの深い心の傷を負っていたんじゃあなかったのか? それが河南子との袖触れあう程度の付き合いで治ってしまいましたって? 馬鹿を言っちゃあいけない。こんなもので人が癒せるのなら、世の中から療養施設は消えてなくなるよ。
これまでKeyの主人公たちが起こしてきた奇跡と癒しは、一見突拍子もないようでいて、厳格な発動条件があったはずだ。そして個人と個人の間で、確固たる意思をもって発動されたはずだ。そこに血が流れないことは一回もなかったはずだ。そうして真実味を持たせてきた奇跡を、智代アフターは薄うく薄く引き延ばしてモブキャラに大安売りしてしまった。あほらしくてやってらんないよ。エゴのない万人の為の奇跡なんざあ、薄ら寒いだけだよ。
もう一つ首をひねりっぱなしだったのは、登場人物が血縁関係に対して盲目的に、妄信的に価値を見出すところだ。私はKeyのシナリオというのは、名前だけの関係と決別して自我を確立し、真に価値のある関係を獲得するものと捉えていたのだが、別にそんなことはなかったぜ!
「だから、朋也…」
「私たちも、このまま…」
「この場所を去ろう」
それが、智代が導き出した答え。
けど、俺は…違う。
「俺は…」
「それでも、ふたりは一緒にいるべきだと思う」
「どうして…」
「親子だから」
「そうとしか言えない」
「そうか…」
(8月13日)
「学校を作る」
「どうして」
「ともが通うために」
「ちょっと待て…ともはまだ幼稚園児だぞ」
「作るなら…幼稚園じゃないのか…」
「俺がここに作りたいのは、未来とか希望とか…そんなのなんだよ」
「学校はその象徴だ」
「だから学校でいい」
「そうか…」
(8月13日)
そうか……。
家族だから云々、血の繋がりがあるから云々ではなく、家族とは? 家族の真の価値が問われるのはどんな時か? と問うのがKeyのスタイルだと思っていたんだけどなぁ。私の見込み違いだったらしい。朋也がともに、父親と断絶されていた自分を重ねているのはわかる。そして有子が余命の残りをともと過ごすのは、両者にとってよいことかもしれない。だがその根拠が「実の親子だから」「血が繋がっているから」ではあまりにも弱すぎる。何の理屈にもなっていない。逆説的ではあるが、無条件で肯定されるような関係に価値なんてありゃあしないのだ。あそこは朋也の勝手な推測ではなく、当事者であるともと有子のはっきりとした意思と行動がほしかった。やたらにしゃかりき張り切って悦に入っているのが第三者の朋也で、当事者であるはずの親子がわりと蚊帳の外なのも、このシナリオの押し売り感を助長していると思う。本当に最後の最後で有子とともの意思があったことだけが救いだ。第三者の協力というのは『Kanon』以降のKeyに欠かせない要素だが、このシナリオは根本的に間違っている。
最後に、あまりにも唐突な頭部強打と、例のご都合主義的な記憶喪失について。ざっと観測範囲の感想を検索してみたところ、悲劇のための悲劇、下衆な作為を感じると非難囂々だったが、私は逆にあそこからの展開だけは買っている。導入部は下品で説得力に欠けるが、かろうじてKeyらしさを取り戻していたと思う。あの症状こそまさしく死に至る病、不思議病だ。歴代の病気の中でもわかりやすい。そして最終的に、智代と朋也が輝く季節へ到達していることは素直に評価できると思う。一服の清涼剤だ。それと『CLANNAD』とはまた違った形での、朋也と父親の和解を見られたのも嬉しかった。それくらいだ、よかったところは。
あらすじだけ見ればKeyの物語として成立しているが、作品全体に漂う俗っぽさ、軽薄さ、押しつけがましさがただひたすらに悲しい。半端に現実へ踏み込んだことで、却って説得力を失ってしまった。越えてはならない一線を踏みにじったいんちきファンタジーというのが私の偽らざる感想だ。
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